日記

女子大生が暇つぶしにはじめるブログ

失恋と思い出の供養

 

 

ごく稀に、自分が爆発してしまいそうな日が来る。ごく稀にどころでは無いかもしれなかった。一週間に一度くらい。それは友達と遊んだ帰り道で夕焼けを見た瞬間かもしれないし、行きたくないバイトに行くために電車に揺られている時かもしれない、はたまた夜寝る前ベッドの上で何も考えずに天井を見つめている瞬間かもしれない。なんだかよく言い表せないが一人でいて少し悲しい時に自分がわからなくなってしまう。私は誰で、今ここにいるのは誰なんだろう。自分だと信じて20年間生きてきたけど、本当に実在するのだろうかとも思う。

周りの人間は、彼が彼であることに何の疑問も抱かずに過ごしているように見える。彼女もそのように見える。自分というアイデンティティを確立して、私らしさの表現に勤しんでいる。

 

この前といっても9月の終わり、友達とドライブに行った。面子は、本当に謎で、ゼミの友達3人と、その中の1人の高校の友達2人とだった。実質初対面の人が2人いるようなドライブで、何を話そうと悩んだ結果「今日は雨が降ってますね」というコミュ障のテンプレのような言葉を発してしまった。本当に、天気が悪かった。風が強くて、待ち合わせに着くまでに傘を壊してしまったくらい。見ればわかるような当たり前のことを言う私に彼も困ったように「そうですね」と言って、会話は終了した。そして、それが彼とのファーストコンタクトだった。

 

この彼というのは何度も登場している彼を指している。彼というのももうおかしな話だから、元彼というのが相応しいのかもしれない。でも元彼とかいう陳腐な言葉を使いたい訳ではなくて、「過去好きだった人」というニュアンスを伝えたい。別れてから、今更になって、馴れ初めを思い出すなんて自傷行為のひとつでしかないと思う。幸せな日々の始まりを、終わったあとにおもい返すことほど、阿呆らしいことは無いのかもしれない。でも、ちゃんと思い返すことは気持ちの整理に繋がるだろう。ちゃんと思い出せるようになったということは、少しずつ前に向けているということの証明でもあるように思う。だから、前を向くことの過程に少しだけ、付き合ってもらいたい。

 

その旅の目的地は勝浦で、海中展望塔に行くというプランだった。海中展望塔は簡単に言えば長い階段をおりて、海の中に行ける塔のことで、その1番下のフロアには海の中を覗ける窓がついている。階段をおりていく途中、「この先海中」と書かれた表示にわくわくした。海の中にいるんだから、塔が崩れたら死んでしまうねと話した。窓からは鯛やら河豚やら様々な魚が見えるらしい。パンフレットによれば全長1.5メートル位のドチザメという魚もいるそうだったが、見つけることは出来なかった。そもそも天気が悪すぎて海が濁っていたから、いたとしても気づけなかった。結局、海中展望塔には総計15分もいなかった。直径10メートルほどの小さな筒の中で、見る魚もいない中、私たちはなにもやることが無かったのだ。話すことすらなかった。意味もなく、窓の外を眺めてみたけど、魚は全然いなかった。濁った灰色の中でゴミがぷかぷかと浮かんでいた。メンバーに写真好きな奴が1人いて、そいつだけが滅多に来れない場所の写真だから、とはしゃいでいた。海の底で、私は何を話したらいいか分からずに、立ち尽くしていた。

 

海中展望塔に行って、帰りは彼の家でお酒を飲んだ。そこもまた暗い家で、生活感がなかったことを覚えている。ベッドとサイドテーブルが置かれ、間接照明に照らされたラブホテルのような部屋で、電気を消して、皆で酔っ払った。恋愛の話をした。大学生でよくある、経験人数の多い少ないだの、今まで付き合ってきた異性の話。人より少しモテてきたであろう彼の人生を、少し誇らしげに話す彼の話を、くだらねーなと思いながら聞いていた。本当にくだらなかった。自慢したかったんだろうな。そして私も、自分のくだらない恋愛の話をしょうもないなと思いながら、どうにか面白く聞こえるように、話した。今まで付き合ってきた男性の話や、好きだけど報われなかった話。自分の不幸と過去の男性の話。たのしくなかったと言えば嘘になるけれど、別にめちゃくちゃ楽しいわけではなかった。あの時間さえ無ければ、こんな思いをすることも無かったんだろう。

度数の強いアルコールを飲むと、理性が吹っ飛ぶ。そうして、キスをして、付き合った。

本当にくだらない始まりだった。

 

端折りに端折った経緯を久しぶりに思い出した。

 

そう。それで自分が自分じゃなくなるという感覚を思い出した。付き合っていたときは、アイデンティティが確立されていたように思う。「彼の彼女」という確固としたものが自分の中にいた。自分のことも、彼のことも、間違いなく好きだった。多分、当時は。

何もしない日は、一日中彼のことを考えていた。今思うと、異常なくらいだった。ラインの返信を気にして、今度会う時のことを考えて、遊んだ時の写真を何度も何度も見返していた。何度も何度も反芻して、その度に記憶を確かなものにして、確実な現実とじぶんを安心させていた。自分というものは無くて、ただ彼の彼女というわたしがいただけだった。そのことに疑問も持たず、それなりに幸せだったので、いつまでもその生活が続いていくことを望んでいた。

 

別れたあとは、その時間が無くなった。無くなったというより、無くした。思い出して感傷に浸っても、元に戻りたいと思ってしまうだけなので意識的に振り返らないようにしていた。わざとバイトを長時間入れた。友達と会うようにした。就活の忙しさに甘えて、傷を見ないふりをした。そうして、1月を過ごすうちに、どうしてこうなってしまったのかを考え続けても答えなんて出ないことが分かった。人の気持ちなんてものは、他人にはコントロールできない。その行動が、答えの全てだって。

 

考えても状況が変わるわけでもないので意識的に考えないようにしていると、無意識でも考えることが少なくなった。思考の矯正。彼を思い出すものを見ても、ああ懐かしいなと思うだけになった。話で聞いたことのある彼の地元に向かう電車とか、よく行った安くて美味しい焼き鳥のある大衆居酒屋とか。以前のようにそれを見ては昔を思い出して、苦しくなったりどうしてこうなってしまったんだろうと悲しみに浸ったりはしなくなった。何もしていない時でも、以前は気づけば彼のことを考えていたけれど、自然と違うことを考えることができるようになった。携帯の中の彼とのデータも全て消した。写真も動画もゴミ箱からも完全に消去して、SNSはブロック削除して、トーク履歴も消した。私と彼を思い出すものはもう何も無くなった。今となってはあの時間が本当にあったのかどうかすら分からない。

そうなるとまた、自分が誰なのか分からなくなった。ここにいることすら確かなのか分からなくなって、どうしようもなく証明が欲しくなってしまう。

 

2月の初旬、下北沢で石田と会った。高校の同級生で、気の使わせない気の遣い方をしてくれる友人。下北沢らしいカレーを食べた。見た目が家では出てこないような、芸術的なアレ。カレーを食べていたら、映画の撮影をしていた千葉雄大を見かけた。有名人の実物というものを初めてみて、キャッキャしてみた。やっぱりオーラってあるんだね〜とか、でも初見だと分からなかった〜とか一般人らしい感想を述べた。その日は2月にしてはいつも以上に寒く、凍えそうになった。下北沢らしい古着屋とカフェが並ぶ街並みを見ながら、暖を取るためにあえてマクドナルドに入った。オシャレなカフェじゃないのは、あえてだ。チェコレートの懸かったワッフルコーンのソフトクリームはおしゃれなカフェと同じ味がした。多分おなじ。そして、毎度の流れで近況報告をした。石田は、最近は勉強に勤しんでいると言っていた。試験勉強なんてもう3年していなかったので、素直に尊敬の念を抱いた。最近楽しいことあった?と聞かれたので、「世界に絶望している」と、答えた。それから、1月にこっぴどく振られたことを話した。彼女は「そんな酷い人いるんだ?!」と驚きながら、笑って聞いてくれた。ありがたかった。笑ってくれたからこそ、自分がそれを笑い話に出来ていることを実感した。そしてまだ私が彼のことを忘れられていないと言うと、好きだった人を嫌いになるのは難しいことで、時間がかかることだからしょうがないよ、と言ってくれた。肯定してくれたことで安心した。早く彼れを忘れなきゃ、あんなゴミ早く捨てなきゃと焦っていたけれど、まだしばらくは嫌いになれなくても仕方がないんだと思えるようになった。