日記

女子大生が暇つぶしにはじめるブログ

死にそうになりながら生きてる

今週のお題「下書き供養」

 

昔書いてた、鬱々とした途中までの文章が見つかったので掲げます。

 

 

毎日ちょっとしたことで、生きてることに嫌気が差してる。

それは、例えば空が青いことだったり、疲れている時に限って電車で座れないことだったり、外に出たら暑いことだったり。

それだけなのに、動かしようのない事実が私を押さえつけるから、「あーもうやだ」となってしまう。

 

元々、生きることに対してはそんなに執着心があった方ではないと思う。幼少の頃から、次の瞬間死ぬかもしれないと思いながら生活してきた。それでも人並みに景色に感動したり、本を読んで泣いたりと感情を育てて、死にたいとまでは思わなくなった。人が考えていることをなんとなく模倣し、常識的な思考を身につけるところまでは来たと思う。というか、平たくいえば平凡な人間が育った。全て人並みかそれ以下で、人並み以上に優れているものはぱっと浮かばない。そんな地球上のどこにでも居そうな、典型的にちょっと足りない人間になった。

 

こうしたいああしたいという欲望はあるし、自分がここにいることも分かる。だが、自分がどう言った存在で、彼らにとって如何なる意味を持つのかは全く分からず、自らの存在の確信は得られない。感覚的に表せば、自分自身はなにかふにゃふにゃしたところてんのようなものであるだろう。

 

存在の証明が欲しい、と思うまでに時間はかからなかった。誰かに愛されてないと自分という存在を認識できずに、いつだって生きてはいるものの、ここにいないような感覚に苛まれている。そんなのは死んでるのと変わらない。毎日目が覚める度にああまた生きているのかと絶望する日々を過ごしている。

 

前述の通り、存在の証明が欲しくて欲しくてたまらない。誰かにとっての「絶対」「特別」になりたい。そうすれば、自分は生きていていいんだと思えるだろう。誰かにとっての「自分」というものが、私の生きる理由になる気がする。それが恋愛という形で現れるのがいちばん普通だと思うから、私は恋人が欲しいし、恋人に愛されていないと不安になってしまう。

 

このような書き方をすれば、俗に言うメンヘラのように思われてめんどくせー女だなとなるのもよく分かる。私だってこんなこと言ってくる人は願い下げだ。でも、自分だって外に出さないけれど、愛というものに対して信頼を置いていないから、常にその存在を確かめていないと不安になってしまう。その不安も他人からは見えていないから、自立した精神も安定している大人に見られてしまうことが多いけれど、実際にはそんなことなんてなく、心は不安定に揺れている。1ヶ月のうち本当に自己肯定感が上がって、「生きてるって素晴らしい!!」と心から思えるのは多分、1週間もないくらい。そんな絶望的な人間のことさえ、社会は歯車に乗せて勝手に回ってしまう。取り残されたように感じることはあっても、社会の何らかの組織(家族、友人、学校、職場)に属している限り、生活は続くのだ。