日記

女子大生が暇つぶしにはじめるブログ

深夜にプリンをつくった

今週のお題「好きなおやつ」

 

プリンが好きだ。というよりも歯ごたえがないものが好きなのかもしれないが、プリンも茶碗蒸しもゼリーも好きだ。

その3つが好きなおやつだ。

 

2回目になるが、プリンが好きだ。固いのも柔らかいのも好きだ。

たまに、どうしようもなく、プリンを食べたくなる時がある。そういう時は時間とかは関係なしにプリンを作る。

この前作ったのは深夜の2時だった。大学から出される山のような課題に溺れながら必死にレポートを書く午前2時。一瞬外を見ると向かいの家の明かりは既に消えていて、街には人の気配がしなかった。街灯だけが白く光っている道路は、レポートをやる意味を見失わせる。このままどっか行っちゃいたいな、やり切れないぜと心は叫び、それ以上手は動かなくなった。これまでぶっ通しで頑張ってきたんだ、少しくらい休んだってバチは当たらないと、Instagramを開くとプリンが出てきた。美味しそうで、食べたくなった。何か食べないとこの長い夜に呑み込まれそうだった。

 

以前ツイッターで見た作り方は思ったより簡単で、材料を混ぜて茶漉でこして電子レンジでチンして冷蔵庫で冷やすだけだ。本場のプリンはちゃんと蒸したりしないといけないのだろうが、深夜2時に作るプリンは美味しければそれでいいから、なるべく最短ルートを選ぶ。カラメルソースはよく分からなかったから、蜂蜜を掛けて代用品としよう。甘ければいいさ。

 

料理中、材料を混ぜたり量をはかっている最中は他のことを考えなくて済む。余計な人間関係も、口に出すのもはばかられる悩みも、終わる気配のないレポートも、頭の隅に丸めておける。

だから昔失恋した時は、柄にもなく毎日夕食を作っていた。彼のことを考えなくて済むその時間は私にとって必要だった。勝手に恋して勝手に失恋した淡いだけの気持ちは、愛し合ってドロドロになる恋愛よりも記憶に残る。ふとした瞬間がこびりついて離れないのだ。何かに没頭している時だけ、その人のことを忘れられる。

 

当時のことを思い出しながら、キッチンに立つ。ボールを用意して、卵、牛乳、砂糖をまぜあわせる。電動の泡立て器を使って、だまが残らないように執念深くつぶす。そして、それをさらに茶漉でこす。プリンの容器に移し入れて、それぞれを電子レンジで温める。温めすぎると爆発するから、注意して中を覗きながら、いい感じのところで外に出す。そういえば、昔は電子レンジのオレンジ色の光を見ると、目が悪くなるなんて思ってたこともあった。それが本当かどうかは知らないけど。熱が多少減ったら、冷蔵庫で冷やして出来上がりだ。

 

その日は、むしゃくしゃしていて冷蔵庫で冷やしている間を待てなかったから、冷凍庫に入れた。20分後に取りだしたけど、結局まだ冷えきっていなくて、妙に生暖かいプリンを食べた。深夜に砂糖を食べている罪悪感は最初だけで、あとはもうああ甘いなとしか思わなかった。

 

夜は、人を狂わせると思う。1人で膝を抱えて過ごすのに耐えられなくなって、根を上げてしまいそうになる。そんなとき、プリン食べたいなって思って、作れるだけの時間があったことは自分にとっての救済の手段になるのかもしれなかった。

 

 

 

幼き日にて

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

 

 

昔、といっても12年くらい前のことを思い出した。初めて、1人で電車に乗って、バスに乗って、父方の祖母の家を訪ねた。当時住んでいた江戸川区から祖母の家がある市川市まではそう遠くない。電車を使えば一本で行ける。今ならスマホGoogleマップもあるから、何不自由なくそこまでたどり着ける。

当時はそれが難しかった。電車に乗るだけの行為が、世界を巡る冒険のように感じられる。スマホガラケーも持たずに、リュックサック1つで乗り込んだ電車はひどくガランとして見えた。乗客は少なく、寝ているサラリーマンや帰宅途中の女子高生がポツポツといた。自宅の最寄り駅までは母親が送ってくれ、電車には1人で乗り込む。分かりやすいようにと1番後ろの車両の1番後ろのドアにした。

行ってらっしゃい、向こうに着いたらおばあちゃんによろしくね。と声をかけた母親の顔は、私よりも不安げに見えた。自分が何と返答したかは覚えていない。母親は車掌に話しかけ、3つ先の駅で降りるのでと言付けしていた。

ホームにはメロディが鳴り響き、電車が発車する。見慣れた街が遠くなっていく様を、ぼんやりとした窓から見ていた。

知らない場所に行っちゃうんだなと何となく感じて、急に不安になる。向こうに着いたら祖母が待っていて、あとはいつも通りの道を辿って家へ向かうだけなのに。おばあちゃんが作ってくれる今日の晩御飯は何だろうと考えたりもした。いつもわたしがくるとシチューを作ってくれた。

私はおばあちゃんのシチューはおばあちゃんにしか作れないと思っていて、その味は唯一無二のものだと信じていた。それが大人になってから気づいたのだが、その味は市販のシチューに塩を足すと再現出来る。少ししょっぱいけど、ご飯に合う。それに気づいた瞬間、祖母だけの魔法はあっという間に崩れてしまった。真実は意外と呆気なく判明してしまう。それでも私はおばあちゃんの作るシチューがやはり好きなので、問題は無いけれど。

 

それから15分ほど電車に揺られ、私は祖母の待つ駅へと辿り着いた。やっと電車の旅を終えた安堵感で満たされる。夕方だったので、ホームは暖かな色に照らされていた。またメロディが鳴り、電車は次の駅へと向かっていった。私は後ろを振り向き、車掌に手を振る。送ってくれてありがとねと。

そして祖母を手を繋いで、一緒にバスに乗り込んだ。目指す家はもうそこで、そこにはもう何も心配事はなかった。

 

 

お題「昨日食べたもの」

 

昨日はひさしぶりにあった大学の友達と、ラーメン屋さんに行った。家系のこってりスープのラーメンだ。最近野菜が不足していたので、野菜ラーメンを頼んだら、出てきたのは山盛りのもやしが乗せられたえげつないものだった。こんなに沢山食べられないと思いながら、お腹がはち切れそうになって、完食した。スープまでは飲めなかった。スープを飲みきったらサービス券がついてくるらしいが、塩分過多と脂肪過多で死んでしまいそうなので遠慮した。

ラーメン食べるのが上手い人が羨ましい。わたしはラーメンというかものを食べるのが下手で、すぐにこぼしてしまう。ラーメンも例外ではない。麺をすすろうとすると、すすっている麺に残った麺がまとわりついてうまく口まで運べない。あとすする途中に汁を飛び散らせてしまうのが申し訳ない。食べ物を皿から運ぶ間によく落とす。食事のマナーが良い人になりたい。きっと育ちをから変えないとダメだな。

 

この半年間のことを報告し合っていたらいつの間にか夕方になっていた。6時には解散した。単純に相手に用事があっただけだが、健全だなあと思う。大学生は終電まで酒を飲んで吐く生き物だから、これはレアケースだ。

 

帰り道、高校の制服を見た。白いセーラー服に臙脂色のラインとリボン。着慣れた制服を着ているのは、自分ではなく年下の誰かで。私はもう一生あれを着ることは無いのかとすこし悲しい。膝丈までの長めのスカート。肩にかけた黒いスクールバッグが重そうだった。教科書とか持ち帰るのは面倒くさい。その重みは制服の方に皺をつける。自分も経験していたはずなのに、今では他人事のように感じるから、本当にその高校に通っていたのか自分でも分からなくなる。

 

それから家に帰って母親の作ったよく分からない炒め物をいただいた。多分余り物を適当に炒めたのだろうが、まあまあ美味しかった。白いご飯に合うような濃い味付け。いつか一人暮らしして、自分1人になったら絶対料理もしないし、毎日外食になるだろうから今のうちに母親の味でも堪能しとこうかなと言ったら鼻で笑われた。

アートアクアリウムに行ってみて

金魚が水槽に閉じ込められていて、ライトアップされている。その様はさながら吉原の遊郭のようで。艶やかに泳ぐ魚たちは私たちをひらひらと翻弄する。

 

9/5大学のサークルで出来たお友達、東さんと日本橋にあるアートアクアリウムに行った。今日はとても暑く、待ち合わせの時から全身の毛穴から汗が吹き出していた。もう9月なのに涼しくなる気配が微塵もない今の日本はきっと狂っているのだろう。アスファルトからは熱が立ち上り、そのうち溶けてなくなってしまうのではないかと自身の行く末を心配するくらいには暑かった。東さんは日本橋なんて初めてよ、高級店ばかりねと笑った。

 

5分ほど歩くと、アートアクアリウムに着く。美術と水族館を融合した施設の様子がとても美しいことで、SNSを中心に話題となった。いくつも水槽があり、その中には様々な金魚がいる。その様子がこの世のものではないようで、幻想的なのだ。

まず施設に入ると、目の前に大きめの水槽が現れる。水槽の中には無数の金魚がいて、そこだけの世界を形成している。周りの壁紙は全て黒で統一され、自分がどこか異世界に来たかのように錯覚した。下からピンクや黄色や赤や青に照らされ、金魚たちは泳ぐ。

綺麗だね、と言い合って魚を眺めた。確かに、綺麗ではある。シンプルでありながらも凝った装飾に、幾千もの中から選ばれ抜かれたのであろう金魚のコラボレーションは美しい。だが、同時に不気味でもあるのだ。何処を見ているのか分からない眼に、ぱくぱくと開け閉めする口。血管の薄く透けて見えるヒレを動かし、踊るように泳ぐ。赤の魚も白の魚も黒の魚もいた。じっとみていると何かに取り憑かれてしまいそうになる。私もそっち側にいってしまいそう。煌めく水の世界に。

上をむくと天井にも金魚がいた。一瞬目が合った気がして、どきりとする。いや、まさかねと思い直してアクアリウムを出た。

 

結局、金魚が綺麗だったという感想をもって、アートアクアリウムでの体験は終了した。周りは人だらけだけど、そこはたしかに異世界であった。一歩間違えたら向こう側に落ちてしまいそうな緊迫感もあった。多分私には想像力がないのだろう。金魚を見て自分の作品に昇華するというアウトプットはしなかったし、せおぜいここにこうして書き留めておくだけだ。でもそこにはたしかに江戸の花魁の世界があったということを伝えておきたい。

 

アートアクアリウムを出たあと、東さんと喫茶店ルノアールに行った。彼女も私も初めてルノアールに入るので、少しだけ緊張した。加えて中はちゃんとした喫茶店で、子供が入っていいような雰囲気ではなかったため、入るのには勇気が必要だった。スーツのおじさんはMacBookを広げ、お洒落なワンピースを着た大学生らしき人は資格の勉強に励んでいた。照明は微妙に暗く、それがまた高級感を醸し出している。

 

受験勉強とかこういうところでしたかったよね、でもきっとスマホ見ちゃうなあという大学1年生のような会話をしながら、チーズケーキをいただいた。わたしたちはもう2年生なのにねおかしいなあ。このヨーグルトの酸味が程よく効いて、紅茶にとても合うスイーツは、きっと家では出てこないだろう。たぶん、赤いビロード張りのソファに座って食べるからこその味なのだ。

 

ここからいなくなりたい

今週のお題「遠くへ行きたい」

 

 

ステイホームが続いて、バイト以外の外出がほぼゼロの生活になった。毎日毎日同じような生活を送り、日々の彩りは何も無く、ただただ灰色の毎日を過ごしている。家から出たい、遠くに行きたいという気持ちもあるがそれ以上に私には、ここから抜け出したいという思いの方が強いのだ。

 

物心ついたときから自分の存在がよく分からなかった。自分が誰で、何をしていて、これからどうなるのか。もちろん名前はあって、今は課題をやっていて、これからはまあ普通に生きていく、そういうことはわかる。でも言いたいのはそういう事ではなくて。自分のアイデンティティというのか、存在を確信させてくれるものが私には何も無いのだ。それなりに楽しいことはあったし、それ以上に毎日は鬱々としていて、それについて思うことも感じることもあるけれど、なんだか虚しくなってしまう。

 

だれも自分を知らない場所にいきたいと思う。知らない街で知らない人々とすれ違いながら行くあても無く歩くのだ。

 

5/11 滅亡するはずだったなら

なんだか5/11の深夜2時55分に日本は滅亡するらしかった。南海トラフとか首都直下地震とかそんな感じの原因らしい。

 

わたしはこの話を3日前ほど前に友達から聞いた。いつもの様に深夜、蒸し暑さを感じながらああもう3時かと心の隅で思って、くだらない話をいつものようにだらけた口調で喋っていたら、急に緊急地震速報が鳴ったのだ。あの音は何回聞いても心臓に悪いし慣れる気がしない。まさに緊急時であるから戦略的には正解なのかもしれないと思う。とにかくその緊急地震速報から私たちの話は少し真面目に、地震の話題になった。そういえば5/11の深夜に地震起きてやばいんだって、と何がやばいのかあんまり伝わって来ないような口調で言われた。それどこ情報?と答えるとTwitterと言われる。そんなん本当か分からねえなと思ったけど、もしもそれが本当で1週間間後とかには私たちがこうやって笑って話せる未来が存在しなくなってる可能性を考えたら若干怖くなって、やばいねライフジャケット買わなきゃと言って笑った。津波が来たらさ、それ着て浮けばいいじゃんと馬鹿丸出しの会話をする。ライフジャケット着て水の中散歩すれば?それじゃあ散歩ならぬ散泳だよ。あと防災リュック買ったわ。まじで、私も乾パン買おうかな。でも乾パンってそんなに美味しくないよな。くだらないけどもし世界が滅亡するなら、そんなこと言って笑いあってる今のこの時間はきっと宝物になるんだろうなって思った。

 

 

そう思いながらその日は寝た。

 

 

結論から言うと5/11の2時55分に地震は来なかったし、実際に朝小さい地震はきたものの、日本が滅亡する程度のものでは全然なかった。私は「Twitterから流れてきたそんな根も葉もない噂なんて信じてないよ、みんな信じてたの?馬鹿だねー」と言葉では言いながら、本当になったら今頃どうなってるんだろう、と滅亡するはずだった今日を想像してみたりした。きっと建物は倒壊して、交通機関は意味を成さず、電話ボックスの前には長蛇の列が出来、あちこちに物が崩れて重なっているのだろう。津波が押し寄せてきて、辺り一面黒い海なんてこともあり得る。東日本大震災のとき、テレビ越しに観てたあの風景を、あの地獄が自分の目の前でもう一度起こっていたのかもしれない。もしかしたら、私はそれにより既に死んでいて、その光景を見ることすら出来なかった今日があったのかもしれない。

 

まあそんなことはどうでもいい。滅亡するならする、しないならしないでどっちかに統一して欲しい。結局自然界なんて何が起こるか分からないし、いくらライフジャケット買ったって、死ぬ時は死ぬし、生きる時は生きる。

そんなことは分かってはいるんだけど、私は少し楽しかった。こんなことを言っては不謹慎出し、怒られてもしょうがないかもとは思うけどもうすぐ世界の在り方が爆発し、自分も皆も何もかも無くなっちゃうかもしれないと考えるのが楽しかった。こんな話をして、自分たちの世界の滅亡のことすら笑い合えて、その時間を止めてある意味永久のものに出来るのだったら、それはそれで良いものだと思ってしまった。ここで終われれば辛いことも苦しいことも、今後なくなるじゃんなんて、死が救いだなんて言いたくはないけど、それに似たようなことを考えてしまった。やり残したこととかもあるんだろうけど、そんなの無くなっちゃえば関係ないし。私はその人とこのことに関してどうでもいいことを話すようなテンションで話せるのが嬉しかった。死にたくないとか死にたいとかを言いたいわけじゃない。べつに滅亡するはずだったなら、そんな噂とか流れるくらいなら、さっさと滅亡しちゃえよってちょっと思った。

 

 

最後は思ったことを書きすぎて、自分でも何を書いているのかが分からなくなってしまった。

 

#おうち時間

 

 

5/1 思ったこと

昨日は一日中家に籠ってすごした。いつだったか忘れたけど、少し前に政府から出された自粛要請。そいつの権威を借りて、ここ数週間はほとんど家から出てないし、人とも会っていない。唯一と言っていい程の外出はバイトのみ。

 

わたしはレンタルビデオ屋でバイトをしているのだが、皆様家にいる時間が有り余っているらしく普段以上に人が来る。レジは行列が絶えないし、返却カゴは満杯。セルフレジがあるにも関わらず、大量の漫画を有人レジで買おうとしてくる輩に対してこころの中で舌打ちをしながら、レジにたっている。ピッ、ピッと商品をレジに通しながら無心でただただ時が過ぎていくのを待っている。

だが、そんなバイトもここ数日は一切なく、ただただ何もしない時間を家で過ごした。

朝は最悪な気分から始まる。夜寝る前、電気を消してから眠りに落ちるまでの時間は寂しい。布団に入るのが遅くもう皆寝ているから、だれからも連絡は来ず、ただただスマホの画面を眺めているあの時間が嫌だ。目を閉じると暗闇に放り込まれた気がする。何も無い黒の中を1人だけでいると、世界には自分だけしかいないのではないかと思えてきて、自分は本当に孤独なことを痛感する。はたまた昔の友達と遊んだり好きな人と電話をしたりして楽しかった時間を思い出しては、今のこのひとりぼっちが余計に際立つ気がして更に悲しくなる。どうしようもなく理由もないけどただ辛くて辛くて、ようやく眠れても、浅い眠りしか訪れずふとした瞬間に目が覚める。ようやく眠れるのは明け方の空が白んできた頃で、ああやっと眠れると思いながらまた眠りの渦に巻き込まれていく。

そうやって、夜を越えたあとの朝は最悪で、目覚める度に絶望を味わう。

眠りにつくのが遅く、起きる時間もおそい。家族の生活音で現実に引き戻されて真っ先に思うのが、起きてしまったということ。携帯を確認して、現在の時刻に絶望し、予定が無く自分が今日何をして過ごすにも希望がないことに絶望した。できることならこのままずっと寝ていたかった、目覚めてしまわなければよかったと毎朝のように思ってるし、今日も思った。

 

それから遅めの朝ごはんとして昼食を食べて、何もすることもなく自室に戻り、ベッドに寝転んだ。部屋の構造上、ベットの横に窓があり、シャッターを開けると空が見える。今日はなんでか分からないけれど、すごく晴れていた。高い空を見ながら、少し暖かくなってきたけれどまだ少し肌寒い風を顔に感じた。薄く青い空に対して、何にもしてない自分がひどく情けないなと思って課題でもやろうかと思ったが、やる気は起きず、結局そのまま空を見続けた。あーあと特に意味の無い声を発しては、惨めになってやめた。そのままでいると自分が空の人間であるような気がした。何も無くて、生きがいとかそういう大層なものなんて一生見つけられなくてずっとこのまま空見ながら憂鬱な気分が続くのだろう。きっと自分はこれからなんとなく日々を消化して、なんとなく楽しいことはあるかもしれないけれど、ただずっともやもやとした晴れない気分のまま人生を送るんだろうなと思った。

 

 

 

#おうち時間